朝のアラームが鳴る前、柚葉はすでに目を覚ましていた。
すっきり、とは言わない。
でも――いつものような「私、布団と契約してた? 外界と縁切れてる?」みたいな感覚ではなかった。
まぶたを開けると、ほんの少し軽さがある。
「……お? 起きれる……かも。」
布団からそろりと腕を伸ばして身体を起こす。
まだ眠気はあるけれど、昨日よりも、少しだけ前に進んでいる気がした。
洗面所へ向かい、顔を覗き込む。
「まあまあ。輪郭ある。今日の私は、ちゃんと“私の顔”。」
むくみもゼロじゃない。クマも健在。
でも、鏡越しの自分が、どこか息をしているように見えて――柚葉は小さく笑った。
朝日が差し込む部屋で、白湯を啜る。
湯気がゆっくり上がるのを見ていると、胸の奥のざわざわが不思議とほどけていく。
「……静かだ。」
そう呟いた瞬間――視界が柔らかく揺れた。
もう驚かない。
いつもの展開だ、と心のどこかでわかっていた。
まぶたを閉じ、再び開けると――そこは体内世界。
だけど、今までとは違った。
戦場でも、荒野でも、迷宮でもない。
ふわりと柔らかな空気が漂い、ステージのような場所に五臓たちが集まっている。
まるでライブ前のリハーサルみたいだ。
肝が剣ではなく、笛のような棒を持っていた。
肺は白衣ではなく、柔らかなストールを羽織り、深い呼吸をしている。
脾は器を抱えたまま、微笑んでいた。
腎は静かに水辺に立ち、深い青をまとい、穏やかに揺れている。
心は赤い光をまといながら中央に立ち、優しく手を伸ばした。
「柚葉。よく来たね。」
その声は、前と違う。
命令でも、焦りでも、混乱でもなく――ただ、温かい。
柚葉はぽつりと言った。
「……なんか、平和すぎて逆に怖いんだけど。
大丈夫? 今日、誰も爆発しない?」
肝が肩をすくめて笑った。
「俺だって、毎回暴れてえわけじゃねえよ。
でもな――巡らなかったら、どうにもならなかった。」
脾が続ける。
「わたしも、ご飯を力に変えたいだけなのに、余裕がない時は動けなくなるの。」
肺は静かに柚葉を見つめた。
「呼吸は、自分を責めるためにあるんじゃない。
君を満たすためにある。」
腎は柔らかく微笑んだ。
「休むことを怖がらなくていい。
充電しないと、また倒れるだけだ。」
そして、心がゆっくりと言葉を落とす。
「私たちは敵じゃない。
ただ、伝えたかったんだ――“気づいて”って。」
その言葉に、胸の奥がふっと熱くなる。
柚葉はぽつりと呟いた。
「……私、ずっと間違えてたんだね。」
五臓たちは首を横に振った。
「間違いじゃないよ。」
「知らなかっただけ。」
「学んでる途中。」
「生きてる証。」
「そして、ここまで来た。」
それぞれ違う声が、でもひとつの意味を持って響く。
そのとき――影が現れた。
以前のように荒れ狂う存在ではなく、静かに立つ黒い影。
恐怖ではなく、空気、と言った方が近い。
柚葉は顔をしかめた。
「あんたまだいたの?」
影は笑う。
「当然だろ。私は“ストレス”。
生きてる限り消えない。
でも――」
声が低く、落ち着き、どこか優しかった。
「前のように暴れたりはしない。
今のお前には、“余力”があるからな。」
柚葉は目を瞬かせた。
「……余力?」
肝が歩み寄り、柚葉の胸に手を当てる。
「そう。
ぎゅうぎゅうに詰め込まず、余裕を残すこと。
休むスペース。
呼吸のスペース。
感じるスペース。」
肺が続ける。
「吸う前に、吐く。
満たす前に、手放す。」
脾が笑いながら言う。
「食べることは、生きること。
選ぶことは、自分を選ぶこと。」
腎が静かに告げる。
「未来を作るのは、今日の積み重ね。」
心が最後に、まっすぐ言った。
「だから――私たちを敵だと思わないで。」
柚葉は、息を吸った。
深く。
今までより、ずっと深く。
そして――
「……うん。
わかった。
完璧じゃなくていいなら――
私、少しずつやる。」
その瞬間、体内世界が光に包まれた。
気づけば部屋に戻っていた。
机の上には小さなメモ。
今日やること
□ 朝、白湯
□ 深呼吸3回
□ 寝る前にスマホ置く
□ りんご食べる
□ 疲れたら休む(←重要)
柚葉はふっと微笑んだ。
「よし。
今日の私は、今日の私でいい。」
コートを羽織り、外へ出る。
冬の冷たい風が頬を撫でたけれど、胸の奥は不思議と暖かかった。
――END――
