柚葉はゼミ室の片隅で、必死に咳をこらえていた。
乾燥した冬の空気が喉にまとわりつき、息を吸うたびにカサカサと音が鳴りそうだ。
「けほっ……んんっ……」
声を殺しながら喉を押さえる。マスクの中で、喉の奥がひび割れるように痛む。
夕方のゼミ。教授の声は子守歌みたいに遠く聞こえるのに、自分の喉は砂漠みたいに乾いている。
小さく咳が漏れると、隣の席の子がちらりと視線を向ける。
その一瞬にすら耐えられなくて、柚葉は慌てて水のペットボトルを手に取った。
(やば……咳って体調不良アピールに見えるし、下手したら“移るやつ”って思われるかもしれない……!)
ただでさえ最近、体調管理にはみんな神経質だ。咳が移ると思われたら最悪だ。
だからといって、我慢すればするほど喉がイガイガして、胸にせり上がってくる。
「くっ……。あぁもう……笑っても咳、話しても咳……。これ、地獄の咳ループじゃん」
マスクの下で必死に耐える。涙目になりながら、柚葉は机に突っ伏した。
「……喉が砂漠みたい……」
心の中で呟いた瞬間、視界がぐにゃりと歪み、教室の景色が砂に崩れていった。
気づけば柚葉は、乾いた砂嵐が吹き荒れる荒野に立っていた。
地面はひび割れ、白い砂が風に舞い、喉のイガイガはさらにひどくなる。
中央に立つのは白衣をまとった肺。衣は裂け、声はかすれていた。
「……私は“肺”。本来なら呼吸を整え、全身に潤いを届ける役割がある。だが……乾燥と熱にやられて、声も出にくい」
肺は胸を押さえ、ゴホッと咳き込んだ。
その時だった。
「カッサカッサ〜〜!!!」
緑がかったボサボサ頭の燥邪が、風に乗って現れた。体は紙のようにひらひら、声はガサガサと耳障りだ。
燥邪は大口を開けて笑いながら、肺の衣を引き裂くように乾いた風を吹きつける。
「潤いなんか無駄だぷぅ〜! 乾かせ、乾かせ〜! 咳を止めさせねぇ!」
砂嵐が強まり、柚葉の肌までチクチク痛む。マスク越しに吸う空気はカサカサで、咳が込み上げる。
「やめて! これ以上乾かされたら……!」
肺は苦しげに言った。
「……潤いさえあれば……燥邪を追い払えるのに……」
しかし燥邪はますます勢いづき、砂を巻き上げながら嘲笑した。
「お前らの陰なんて、全部干からびてんだぷぅ〜! 砂漠で水探すより絶望的だぜぇ!」
脾は青白い顔でうつむき、声を震わせる。
「私の潤いも……吸い取られて……エネルギーを作れない……」
腎も膝をつき、かすれ声で答えた。
「貯めていた水も……ほとんど残っていない……」
肝は剣を抜くが、砂が絡みつき、刃は鈍く空を切るだけだ。
「乾燥で道が裂けて……巡らせない!」
肺は砂に膝をつき、肩を上下させながら必死に呼吸する。
そのたびに咳がこみ上げ、白衣はさらにひび割れていった。
柚葉は両手で喉を押さえ、必死に声を絞り出した。
「ちょっと待って……このままじゃ、みんな干からびて終わりじゃん!?」
燥邪は喉を鳴らして笑う。
「そうだ、そのまま砂漠になれ! 咳でボロボロに枯れちまえぇ〜!」
肺はかすれ声で呟いた。
「……水でも……潤いでも……ほんの少しでもあれば……」
柚葉はぐっと拳を握った。
「お願い……誰か、この砂漠にオアシスを……!」
その瞬間、空から瑞々しい光が降り注いだ。
甘く爽やかな香りが鼻をかすめる。
「……これ、梨?」
透明な果汁の雫が砂を潤し、乾いた地面にしみ込んでいく。
肺は震える声で微笑んだ。
「そうだ。梨は肺を潤し、喉の渇きを癒す。乾燥で荒れた私を守ってくれる」
続いて、もっちりした雲のような白い塊がふわっと舞い降りる。
「白きくらげ?」
脾が顔を上げ、少し笑った。
「そう。白きくらげは滋陰潤肺、そして私“脾”も助けてくれる。体を一緒に潤すんだ」
さらに、黄金色の滴が空から舞い落ちた。とろりと甘く、温かい光を放つ。
「これは……蜂蜜?」
肺は深く息を吸った。
「蜂蜜は肺を潤し、咳を抑える。乾いた喉を優しく覆ってくれる」
最後に、小さな白い種が舞い散る。杏仁だ。
「杏仁は咳を止め、痰を下げる。乾いた咳を抑えてくれる」
梨の雫が砂嵐を鎮め、白きくらげが乾いた大地を覆う。
蜂蜜が燥邪の体にべったりと絡みつき、杏仁の香りが風をしずめた。
「カッサ……ぬぅぅ!? 甘ったるい! ベタつく! 動け……ないぃ!」
燥邪は転げ回り、乾いた音を立てて粉々に崩れていった。
肺は深呼吸をして、声を取り戻す。
「……咳をするのは、乾燥で肺が悲鳴をあげていた証。今は潤いが戻った」
脾も頬に血色が戻り、腎は静かにうなずく。
肝は剣を収め、ため息をついた。
「巡りが戻れば、俺も暴れなくて済む」
柚葉は胸を押さえ、ほっと息をついた。
「なるほど……咳って、体内砂漠に外部クレーマーが乱入してたせいだったんだ」
ふっと景色が揺れ、柚葉は再びゼミ室の机に突っ伏していた。
喉の奥のイガイガは、さっきよりずっと軽い。
机の横のバッグから、小さなタッパーが見えた。
昨日の夜、友達が「おすそわけ」と渡してくれた梨のコンポートだ。
ゼミが終わり、柚葉は小さなスプーンで一口食べて、ほっと笑った。
「……甘くてしっとり。これ、喉にめっちゃ染みる……」
咳は完全には治っていない。けれど、「潤す」って感覚が少しだけ分かった気がする。
「よし……次の買い物リスト、梨と蜂蜜っと」
マスクを整え、柚葉はもう一度前を向いた。
外の風は冷たく乾いていたが、胸の奥はしっとりと温かさを取り戻していた。
