花椒と火を止めてから
午後の《喫茶つむぎ》は、静かな光に包まれていた。
窓際の影がゆっくり伸び、湯気だけが時間を知らせている。
私は仕込みの合間にレシピ帳を開いていた。
破れたページの後ろに挟まれた紙片。
そこに書かれているのは、短い一行。
――花椒 最後
それだけだった。
分量も理由もない。
「……これじゃ分からないな」
思わずつぶやくと、野菜を刻んでいたつむぎさんが顔を上げた。
「何が?」
「花椒って、最後に入れることありますよね。
香りが飛びやすいって聞いたことがあって」
つむぎさんは小さく笑った。
「そうだね」
それ以上は言わなかった。
ベルが鳴った。
「こんにちは」
真理子さんが入ってくる。
いつもの席に腰を下ろし、ほっと息をつく。
「今日は温かいものが食べたくて。なんだか体が冷えた気がして」
「ちょうどよかったです。今、炒め物を仕込んでいたところなんですよ」
私は厨房へ戻った。
鶏肉と季節野菜の薬膳炒め。
生姜と葱を油に落とすと、やわらかな香りが立つ。
強すぎない香りが、空気をゆっくり温めていく。
薬膳食典・食物性味表 (書籍) [ 一般社団法人 日本中医食養学会編 ] 価格:4400円 |
火を通し、味を整える。
もう仕上げでいい。
私は花椒の瓶に手を伸ばした。
「まだ」
背後から、つむぎさんの声。
手を止める。
油の音が少し変わる。
跳ね方が落ち着き、鍋の動きが静かになる。
つむぎさんが火を止めた。
音が消える。
余熱だけが残る。
その瞬間、花椒を指先で軽く潰して鍋へ落とす。
じゅ、と小さな音。
ふわり、と香りが立ち上がった。
強くはないのに、輪郭だけが残る香り。
「……今なんですね」
つむぎさんは小さくうなずいた。
料理を運ぶ。
真理子さんは一口食べて、箸を止めた。
「……うまく言えないんだけど」
少し考えるように目を細める。
「なんだか、懐かしい感じがして」
「懐かしい?」
「味というより……最後にふっと残る感じかな。
食べ終わったあとに、もう一口思い出したくなるみたいな」
カウンターの向こうで、つむぎさんの手がほんの一瞬だけ止まった。
私は小声で聞いた。
「どうして、あのタイミングなんですか?」
少しの沈黙。
「早いと、残らないの」
布巾を置く音。
「……飛んじゃうから」
私はうなずいた。
理屈は分かる気がした。
でも、どうしてあの瞬間だったのかは分からなかった。
帰り際、真理子さんが言った。
「食べ終わったあとに思い出す料理って、いいですね。
体が温まりました」
ベルが鳴り、店はまた静けさを取り戻した。
価格:1650円 |
閉店後。
私はレシピ帳を開き直す。
――花椒 最後。
意味は分かる。
けれど、まだ届かない。
灯りを落とす前、つむぎさんが帳面を閉じた。
破れたページの端に、指先がそっと触れる。
ほんの小さく、息のような声。
「……うん」
外の夜気の中に、わずかな花椒の香りが残っていた。
増補新版 薬膳・漢方 食材&食べ合わせ手帖【電子書籍】[ 喩静 ] 価格:1485円 |
今日の薬膳ミニ知識
■花椒(ホアジャオ)は体を温め、気の巡りを助けるとされる香辛料。
■香りが飛びやすいため、火を止めた後や食べる直前に加えることが多い。
■仕上げに少量加えることで、食後までやわらかな余韻が残る。
薬膳と漢方の食材小事典 体にいい食べ方、食材の組み合わせがよくわかる [ 東邦大学東洋医部東洋医学研究室 ] 価格:1980円 |
【マラソン限定クーポン配布中】GABAN 四川赤山椒 花椒 ホール 100g 業務用 価格:1478円 |
