第59話 花椒

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花椒と火を止めてから

午後の《喫茶つむぎ》は、静かな光に包まれていた。
窓際の影がゆっくり伸び、湯気だけが時間を知らせている。

私は仕込みの合間にレシピ帳を開いていた。

破れたページの後ろに挟まれた紙片。
そこに書かれているのは、短い一行。

――花椒 最後

それだけだった。

分量も理由もない。

「……これじゃ分からないな」

思わずつぶやくと、野菜を刻んでいたつむぎさんが顔を上げた。

「何が?」

「花椒って、最後に入れることありますよね。
香りが飛びやすいって聞いたことがあって」

つむぎさんは小さく笑った。

「そうだね」

それ以上は言わなかった。

ベルが鳴った。

「こんにちは」

真理子さんが入ってくる。
いつもの席に腰を下ろし、ほっと息をつく。

「今日は温かいものが食べたくて。なんだか体が冷えた気がして」

「ちょうどよかったです。今、炒め物を仕込んでいたところなんですよ」

私は厨房へ戻った。

鶏肉と季節野菜の薬膳炒め。

生姜と葱を油に落とすと、やわらかな香りが立つ。
強すぎない香りが、空気をゆっくり温めていく。

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火を通し、味を整える。

もう仕上げでいい。

私は花椒の瓶に手を伸ばした。

「まだ」

背後から、つむぎさんの声。

手を止める。

油の音が少し変わる。
跳ね方が落ち着き、鍋の動きが静かになる。

つむぎさんが火を止めた。

音が消える。

余熱だけが残る。

その瞬間、花椒を指先で軽く潰して鍋へ落とす。

じゅ、と小さな音。

ふわり、と香りが立ち上がった。

強くはないのに、輪郭だけが残る香り。

「……今なんですね」

つむぎさんは小さくうなずいた。

料理を運ぶ。

真理子さんは一口食べて、箸を止めた。

「……うまく言えないんだけど」

少し考えるように目を細める。

「なんだか、懐かしい感じがして」

「懐かしい?」

「味というより……最後にふっと残る感じかな。
食べ終わったあとに、もう一口思い出したくなるみたいな」

カウンターの向こうで、つむぎさんの手がほんの一瞬だけ止まった。

私は小声で聞いた。

「どうして、あのタイミングなんですか?」

少しの沈黙。

「早いと、残らないの」

布巾を置く音。

「……飛んじゃうから」

私はうなずいた。

理屈は分かる気がした。
でも、どうしてあの瞬間だったのかは分からなかった。

帰り際、真理子さんが言った。

「食べ終わったあとに思い出す料理って、いいですね。
体が温まりました」

ベルが鳴り、店はまた静けさを取り戻した。

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閉店後。

私はレシピ帳を開き直す。

――花椒 最後。

意味は分かる。
けれど、まだ届かない。

灯りを落とす前、つむぎさんが帳面を閉じた。

破れたページの端に、指先がそっと触れる。

ほんの小さく、息のような声。

「……うん」

外の夜気の中に、わずかな花椒の香りが残っていた。

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今日の薬膳ミニ知識

■花椒(ホアジャオ)は体を温め、気の巡りを助けるとされる香辛料。
■香りが飛びやすいため、火を止めた後や食べる直前に加えることが多い。
■仕上げに少量加えることで、食後までやわらかな余韻が残る。

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この記事を書いた人

国際中医薬膳師のいろはが薬膳の効果と普段食べている食材にも効能があることをお伝えします。

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