ジャスミンと残った香り
朝の《喫茶つむぎ》は、まだ客の気配がない。
湯気だけが、店の中でゆっくり動いている。
私はカウンターの上で、ジャスミンの茶葉を広げていた。
指で触れると、かすかに甘い香りが立つ。
つむぎさんは奥で湯を沸かしている。
いつも通りの朝。
でも、どこか静かすぎる気もした。
ベルが鳴る。
「あら、開いてたのね」
入ってきたのは、年配の女性だった。
姿勢はまっすぐで、歩き方に無駄がない。
店の中を見渡す目が、懐かしい場所を確かめるようだった。
「いらっしゃいませ」
私が声をかけると、女性は小さく笑った。
「……久しぶりね」
つむぎさんの手が止まる。
「八重さん」
その名前に、私ははっとする。
——紅花を送ってくれた人。
封筒の差出人。
名前だけ知っている人。
直接会うのは、初めてだった。
「おはようございます」
私が頭を下げると、八重さんはやわらかく頷いた。
「朝の匂い、変わってないわね」
店の中を一度ゆっくり見回し、
カウンターの席に座る。
「ジャスミン、あるかしら」
つむぎさんが、少しだけ間を置いて答える。
「あります」
それだけだった。
私は茶葉をポットに入れ、
静かに湯を注ぐ。
白い湯気が立ち上がる。
甘い香りが、少しずつ広がっていく。
八重さんは、その湯気を見ていた。
「……この香り」
小さくつぶやく。
「覚えてる」
つむぎさんは何も言わない。
薬膳食典・食物性味表 (書籍) [ 一般社団法人 日本中医食養学会編 ] 価格:4400円 |
湯が落ち着き、
カップに注ぐ。
淡い黄金色。
八重さんは両手でカップを包んだ。
ひと口。
しばらく黙る。
「変わらないわね」
それだけだった。
つむぎさんは静かに答える。
「ええ」
二人の間に、
言葉にならない時間が流れる。
私は、邪魔をしないように
そっと厨房に下がる。
でも、耳には届いていた。
「……あの子のノート」
八重さんが言った。
つむぎさんの指先が、わずかに動く。
「向こうの店で、整理していたら出てきたそうよ」
価格:1650円 |
それだけ。
私は顔を上げない。
ただ、包丁の手を止めない。
「香りのこと、ずいぶん書いてあったわ」
つむぎさんは何も言わない。
八重さんは続けない。
ただ、ジャスミン茶をもう一口飲んだ。
「……あなたなら、わかると思って」
その言葉だけが、
静かに残った。
しばらくして、
八重さんはカップを置いた。
「また来るわ」
立ち上がる。
それ以上は、何も言わない。
つむぎさんも、何も聞かない。
ベルが鳴り、
外の光が少しだけ入る。
店の中に、
ジャスミンの香りが残った。
私はカウンターを拭きながら、
つむぎさんを見る。
つむぎさんは、
棚の奥のノートを一瞬だけ見た。
何も触れない。
ただ、火を弱める。
それだけだった。
朝の光が、
ゆっくり店の中に広がっていく。
《喫茶つむぎ》は今日も、
静かに開いている。
香りだけが、
少しだけ過去に触れていた。
増補新版 薬膳・漢方 食材&食べ合わせ手帖【電子書籍】[ 喩静 ] 価格:1485円 |
今日の薬膳ミニ知識
■ ジャスミン
・気の巡りを整え、胸のつかえをやわらげる
・緊張や気滞による食欲不振・気分の停滞に向く
・芳香で肺の気を助け、呼吸を穏やかにする
■ 香りの働き
・芳香は「気」に作用し、停滞を軽くする
・強い補いよりも、まず巡りを整える役割
■ 温かいお茶
・体を強く温めすぎず、穏やかに巡らせる
・感情が固まっているときに向く
薬膳と漢方の食材小事典 体にいい食べ方、食材の組み合わせがよくわかる [ 東邦大学東洋医部東洋医学研究室 ] 価格:1980円 |
価格:1674円 |
