菜の花と春の訪れ
午後の《喫茶つむぎ》は、静かだった。
客席には誰もいない。
窓の外だけが、ゆっくりと季節を進めている。
カウンターの上に、小さな紙袋が置かれていた。
中から、鮮やかな黄色がのぞく。
「……菜の花」
朝、常連の人が置いていったものだ。
「庭に咲いたから」と、それだけ言って。
私は袋から取り出して、まな板の上に並べた。
春の色は、音がしないのに、空気を少し変える。
(季節もの、か)
レシピ帳を開く。
ぱら、と紙が鳴る。
そこには、つむぎさんの文字。
今より少し丸くて、でも迷いのない字。
——春は、上にのぼる
——苦味は、整える
ページの端には、小さく書き足された別の文字。
——焦って出さない
——少しずつ
(……これ)
自分の書いたメモと、似ている。
私は、別のページをめくる。
最近、自分が書いたところ。
——春は、巡りが速くなる
——上がりすぎると疲れる
——少し苦味
同じだ。
言葉は違う。
でも、見ているものが同じ。
「気づいた?」
振り向くと、つむぎさんが立っていた。
いつからそこにいたのかわからない。
「……これ」
私は、レシピ帳を指さす。
「書いてあること、同じで」
つむぎさんは、少しだけ笑った。
「そうね」
それだけだった。
「これ、特別なレシピ帳じゃないんですね」
「ええ」
つむぎさんは、カウンターに手を置いた。
「人を見て、書いてきただけ」
私は、もう一度ページを見る。
料理名は少ない。
効能も、断定していない。
あるのは、
様子
季節
気配
それと、
小さな言葉。
「……私も」
自分のメモを見て、言う。
「もう書いてますね」
「書いてるわね」
つむぎさんは、静かに頷いた。
それ以上、説明はなかった。
私は菜の花を切る。
茎は少し硬い。
でも、春の苦味はやわらかい。
鍋に湯を沸かし、さっと通す。
火を入れすぎない。
(春は、動きすぎるから)
出汁を用意し、
少しだけ油を落とす。
菜の花の香りが、ゆっくり広がる。
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私はそのまま、レシピ帳の余白を開いた。
——菜の花
——いただきもの
——誰もいない午後
——春は、静かに来る
書いて、止まる。
(これでいいのか)
つむぎさんが言う。
「それでいいの」
「料理のこと、あまり書いてないです」
「料理のノートじゃないもの」
その言葉が、少しだけ胸に落ちた。
レシピ帳は
秘伝書じゃない。
効かせるためのものでもない。
人の記録だ。
私は鍋の火を止める。
菜の花の色が、ちょうどいいところで止まっている。
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その色を見て、ふと思い出した。
以前、差出人のない封筒で届いた、
この店のレシピ帳の破れた一枚のこと。
つむぎさんは、何も言わない。
聞こうと思えば、聞ける。
でも、今は違う気がした。
まだ、答えは要らない。
私は器に盛る。
誰もいない店に、春の色だけがある。
(私も、もう書いてる)
気づいてしまえば、
特別な瞬間でもない。
ただ、続いているだけ。
蓮の3弦ギターが、奥で鳴った。
軽い音。
春のような音。
私はレシピ帳を閉じる。
——特別じゃない
——続いてきただけ
——これからも
《喫茶つむぎ》の午後に、
春がひとつ、書き足された。
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今日の薬膳ミニ知識
■ 菜の花
・春に上がりやすい気の巡りを整える苦味の野菜
・こもりがちな気持ちを軽く外へ向ける
・冬から春の変わり目の調整食材
■ 春の食事
・強く補うより「巡りを整える」ことが大切
・苦味・香りのある食材が助けになる
・焦って変えず、少しずつ季節に合わせる
→ 春は、動き出す季節。
無理に動かさず、整えることが養生です。
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