アサリとセロリと心の声
夕方の《喫茶つむぎ》は、外の空気がまだざわついているのに、店内だけが少し遅れて静まっていく時間だった。
昼と夜のあいだ。
頭の中だけが、先に疲れてしまう時間帯。
私はカウンターでグラスを拭きながら、ドアの方を気にしていた。
ベルが鳴る。
「……こんばんは」
入ってきたのは、北村陽菜さんだった。
コートを脱ぎながら、いつもより深く息を吐く。
顔は整っているのに、目の奥が休んでいない。
「いらっしゃいませ」
「すみません、ちょっと……頭が」
そう言って、こめかみのあたりを指で押さえた。
席につくと、陽菜さんはメニューを開いたまま、しばらく黙っていた。
読むというより、眺めているだけ。
「今日は……おすすめ、ありますか」
声は穏やか。でも、その下で何かが張りつめている。
(気が、上に集まってる)
「よかったら、温かいスープにしませんか」
「……お願いします」
少し間を置いて、陽菜さんはぽつりと言った。
「仕事で、ちょっと……」
それだけで、十分だった。
続きを促さなくても、言葉は自然にこぼれてくる。
「“わからなかったら聞いて”って言われるんです」
「でも、聞くと……“それ、前に説明したよね?”って」
言いながら、苦笑する。
「しかも、その上司が頼んだことを忘れてるのは……向こうなのに」
言葉の端が、少し尖る。
「言い返せなくて。
言えない自分が悪いのかなって思って……」
最後は、ほとんど独り言だった。
私は、ただうなずく。
(怒りを飲み込んでる)
(行き場のない気が、上に集まってる)
「最近、頭痛が出やすくて」
陽菜さんは続けた。
「夕方になると、顔が熱くなって……寝る前まで、頭が止まらないんです」
「今日は、上に集まったものを下ろす方向がよさそうですね」
そう言って、私は厨房に立った。
鍋にだしを張る。
火は弱め。
沸かしすぎない。
アサリを入れると、殻が静かに口を開く。
セロリは細めに刻み、香りだけを残す。
強く動かさない。
抜きすぎない。
上に集まったものを、静かに下ろす。
器に注ぐと、透明感のあるスープに、セロリの緑がやわらかく浮かんだ。
「お待たせしました。
アサリとセロリのスープです」
陽菜さんは、まず香りを確かめる。
「……いい匂い」
ひと口。
しばらく、黙る。
「……なんか」
少し驚いたように言った。
「ほっと落ち着く味ですね。」
「それは良かったです。」
私は、それ以上言わなかった。
陽菜さんは、スプーンを置いて、ぽつりと漏らす。
「私、怒ってたんですね」
その言葉は、責める調子じゃなかった。
ただ、気づいただけの声。
「怒っちゃいけないと思ってたけど……
ずっと、我慢してました」
「怒ること自体が悪いわけじゃないですよ」
「……ですよね」
もう一口、ゆっくり飲む。
「なんか……」
陽菜さんは少し笑った。
「心の声が、やっと下に降りてきた感じ」
その表現が、とても彼女らしかった。
食べ終えた頃、肩の位置が少し下がっていた。
首の力も、さっきより抜けている。
「頭痛、完全になくなったわけじゃないけど」
「……帰り道、楽そうです」
「それで十分です」
会計を済ませ、立ち上がる前に、陽菜さんは言った。
「ここ、助けを求めていい場所なんですね」
「はい。声に出さなくても」
ベルが鳴り、夕方の空気が少しだけ動いた。
私はカウンターに戻り、心の中で整理する。
——言えなかった言葉は、熱になる。
——下ろせば、静けさに変わる。
《喫茶つむぎ》は今日も、
言葉にならなかった声を、そっと受け止めていた。
今日の薬膳ミニ知識
■ アサリ
・体にこもった熱を冷まし、張りつめた状態をゆるめる。
・イライラや緊張が続いた後の“上にのぼった状態”を鎮める。
■ セロリ
・香りで気の巡りを整え、頭に集まりやすい熱を下ろす。
・考えすぎ・怒りをため込みやすい時に向く野菜。
■ スープという選択
・噛む力を使わず、体と気持ちに静かに届く。
・高ぶった状態を“落ち着かせる方向”に戻しやすい。
→ 強く変えなくていい。
下ろすだけで、心はちゃんと休み始めます。
価格:3931円 |
価格:1728円 |
価格:1690円 |
