豚足と甘い匂い
朝の仕込みの時間は、店がいちばん静かだ。
客の気配も、通りの足音もまだ遠い。
火を入れる音と、水の流れる音だけが、店の中をゆっくり満たしていく。
私はまな板の上で、生姜を細く刻んでいた。
その横では、つむぎさんが鍋を用意している。
「今日は、少し濃いめに出しておこうかしら」
「はい」
返事をしながら、私は鍋の中をのぞく。
下処理を終えた豚足が、静かに並んでいた。
骨の白。
皮のつや。
強く主張しないのに、存在感がある。
つむぎさんは、そこに切り分けた青パパイヤを入れた。
淡い緑色が、湯気の中でやわらかく揺れる。
「妹さんのところ、ですか?」
「ええ」
それだけだった。
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以前、つむぎさんの妹の話を少しだけ聞いたことがある。
出産後、母乳の出が安定しないこと。
体は元気そうでも、気血が足りていない感じがあること。
最初は、ピーナッツの粥を考えたらしい。
でも、妹さんにはアレルギーがあった。
子どもの頃は食べられていたのに、
ある時期から体が受けつけなくなったと聞いた。
「食べられるものは、変わるから」
つむぎさんは、そのときそう言った。
だから今、鍋の中にはピーナッツの代わりに
青パパイヤと豚足が入っている。
私は火加減を見ながら、ナツメを数粒手に取った。
「これ、入れますか?」
「ええ。少しだけ」
鍋の中に落とすと、赤い実がゆっくり沈んだ。
甘い匂いはまだしない。
ただ、ゆっくりと色が深まっていく。
——食べられる形にするには、時間がいる。
ふと、カウンターの端に置いたノートが目に入る。
つむぎさんのレシピ帳。
私が今、使わせてもらっているもの。
その中に挟まれている、
送り主不明の、あの切り取られたページ。
なぜ送られてきたのか。
誰が送ったのか。
本体は、この店にあった。
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送り主のことを、少しだけ考える。
この店を知っている人。
レシピ帳の存在を知っている人。
それ以上は、まだわからない。
でも、今はまだ、追いかける感じじゃない。
つむぎさんは、鍋のふたを少しずらし、湯気を逃がした。
「朝のうちに火を入れておくと、
午後にはちょうどよくなるわ」
「はい」
それだけの会話だった。
鍋の中では、
豚足とパパイヤがゆっくり形を変えていく。
急がず、強めず、
ただ続いていく火の中で。
私はノートを開き、余白に書き足した。
——同じ材料でも、
その人に合う形は変わる。
——食べられるかどうかは、
体が決める。
ペンを置くと、
朝の光が少しだけ強くなっていた。
つむぎさんは何も言わず、
ただ鍋を見ている。
私も、何も聞かなかった。
聞こうと思えば聞ける。
でも、まだその時じゃない。
《喫茶つむぎ》の朝は、
今日も静かに始まっている。
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今日の薬膳ミニ知識
■ 豚足
・血と潤いを補い、回復期の体を支える食材
・産後や消耗が続いた後の養生に使われることが多い
■ 青パパイヤ
・消化を助け、栄養の吸収を支える
・乳の巡りを助け、通乳食として用いられることがある
■ ナツメ
・血を養い、体力の回復を助ける
・胃腸をいたわりながら栄養を届ける
■ 食材の変更について
・体質やアレルギーによって、同じ目的でも食材は変わる
・大切なのは「何を使うか」より「どう合わせるか」
→ 体に合う形は、一人ずつ違う。
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