和合の鍋と集まる理由
夕暮れの《喫茶つむぎ》の入口には、
いつもは置かれていない小さな黒板が立てかけられていた。
本日:季節の鍋あります
ひとりでも、途中参加でもどうぞ
※相席になる場合があります
手書きの文字は少し不揃いで、
きっちりした告知というより、
「今日はこんな日です」とそっと伝えるような書き方だった。
店の扉を開ける前から、
中からはいつもより人の気配が伝わってくる。
笑い声というほど大きな音はないけれど、
複数の呼吸が重なっている感じ。
夕方の《喫茶つむぎ》は、
いつもより少しだけにぎやかだった。
それでも騒がしいわけではない。
人の気配が重なり合い、音がやわらかく溶けている――そんな空気。
私はカウンターの奥で、大きめの土鍋を拭いていた。
今日の仕込みは、特別な料理というほどのものではない。
白菜。
長ねぎ。
春菊。
きのこ数種。
豆腐。
そして、薄切りの鶏肉。
どれも季節の中で、無理なく手に入る食材ばかり。
「今日は、鍋にしようと思うんです」
そう言ったとき、つむぎさんは少し驚いた顔をしてから、すぐに頷いた。
「いいわね。
“集まる理由”がある日は、分け合う料理がいちばん」
最初に扉を押したのは、石田さんだった。
入口の黒板を一度見てから、少し照れたように入ってくる。
「……今日はイベントですか?」
「はい。
でも、特別なことはしませんよ」
そう言うと、石田さんは肩の力を抜いた。
「それなら安心だ。
こういうの、実は好きでね」
続いて、高瀬陸。
黒板をちらりと見て、迷うことなく中へ。
「鍋って書いてあったから。
一人でもいいなら、って」
「もちろんです」
そのあとに、森永翠さん。
仕事帰りらしく、コートを脱ぎながら言った。
「告知、見えちゃって。
……今日は、誰かと食べたい気分だったから」
最後に、由衣ちゃんが顔を出す。
「うわ、ほんとだ。
今日“集まっていい日”なんですね」
その言葉で、場の輪郭がはっきりした。
鍋に火を入れると、湯気がゆっくり立ち上る。
沸き立たせるのではなく、静かに温まっていく火加減。
「薬膳って、特別な料理だと思ってたんですけど」
陸がぽつりと言った。
「こうやって見ると……普通ですね」
「普通よ」
つむぎさんが即座に答える。
「特別にしすぎると、続かないもの」
私は頷きながら、鍋に具材を入れていく。
「今日は、“和合”を意識しました。
誰か一人に効かせる料理じゃなくて、
一緒に食べて、同じ温度になるための料理です」
白菜がしんなりし、鶏の旨味が出てくる。
香りは主張せず、ただ場を包む。
「分け合うと、不思議ですね」
翠さんが言う。
「食べてる量は同じなのに、
一人の時より、ちゃんと満ちる感じがします」
「それが“和”だ」
蓮が、珍しく説明するように口を開いた。
「同じもんを食うってのは、
体のリズムを揃えるってことだ」
由衣ちゃんが目を輝かせる。
「それって、オカルト的にも――」
「科学的にも、な」
蓮が被せて、場がまた笑いに包まれた。
私は、皆の箸が同じ鍋に伸びているのを見つめながら、
胸の奥で静かに確信していた。
——薬膳は、治すためだけのものじゃない。
——戻るための場所を、共有すること。
レシピ帳を開き、余白に書き足す。
「和合」
分け合うことで、整う。
同じ鍋は、同じ時間を生む。
顔を上げると、蓮がこちらを見ていた。
何も言わない。
でもその眼差しは、はっきりしている。
——ここを、見ている。
——この場を、託せるかを。
私は小さく息を吸い、また鍋に具材を足した。
今はまだ、答えを出す時間じゃない。
でも、この光景が続いてほしいと思えた。
土鍋の中で、季節の食材が静かに混ざり合う。
夜の《喫茶つむぎ》に、
「おいしい」でも「効く」でもない、
人が集まる理由が、確かにそこにあった。
今日の薬膳ミニ知識
■ 鍋料理(分け合う食事)
・複数の食材を同時に摂ることで、体への刺激が偏りにくい。
・温かさと水分を一緒に取り入れ、胃腸を穏やかに働かせる。
・同じ鍋を囲むことで、食べる速さや量が自然に整いやすい。
■ 白菜
・体の余分な熱を冷まし、消化を助ける。
・胃にやさしく、疲れているときの土台づくりに。
■ 長ねぎ
・冷えを散らし、巡りを助ける。
・香りが食欲を呼び、場の空気もやわらかくする。
■ きのこ類
・余分なものを外へ出し、体の中を整理する。
・食後の重さを残しにくい。
■ 鶏肉
・気を補い、疲れた体を静かに支える。
・消化しやすく、集まりの食事に向く。
→ 薬膳は「特別な人のための処方」だけでなく、
集まる人たちの間に“調和”をつくる食事でもあります。
分け合う温かい料理は、体と心の境目をゆるめてくれます。
価格:4479円 |
価格:780円 |
