第13話 記憶のラビリンスに迷い込む(集中力低下編)

朝、柚葉はノートの同じ段落を三回目から先に進めず、鉛筆を口にくわえたまま固まっていた。
「……この一文、さっきも読んだ、てか昨日も読んだ。なんで入ってこないんだ私の脳……」

視界の端が霞んで、活字が白い霧に溶けていく感覚。コーヒーは空、胃はぐうと鳴き、胸の鼓動だけがやたら存在感を主張していた。
「寝不足+スナック夕飯のコンボ、普通に反省案件……」

ペン先がページの端をこすった瞬間、世界がふっと柔らかく曲がる。机の木目が霧に変わり、窓の外の空が真っ白な回廊になった。

――体内世界。
柚葉は白い霧の迷宮に立っていた。壁は紙より薄く、なのにどこまでも続く。足元はやわらかい砂のようで、踏むたびに記憶がサラサラ零れていく気がする。

「……ここ、今日のテーマ“霧”なの?」
返事の代わりに、遠くで鈍い鼓動が一度だけ鳴った。光の弱い灯台みたいに、頼りない明滅。

「心?」
呼びかけると、淡い赤の衣をまとった少年――“心”が、胸に手を当てて座り込んでいた。顔色は薄く、目の光が遠い。
「……灯が弱い。血が足りないと、集中の火がすぐ消えるんだ」

もう一方から、黄色の衣の“脾”が現れる。大きな器を抱えたまま、息が上がっている。
「ごめんなさい……食べたものを“気”と“血”に変える力が落ちてるの。夜更かしとスナック続きで、私、空回りばかり」

霧がふわっと濃くなり、耳元でクスクス笑う声がした。
「やぁやぁ〜、今日もスカスカの気血で営業中?」
白く半透明の小鬼が、霧から顔だけ出してくる。輪郭は曖昧で、見ようとすればするほどぼやける。
「俺は“虚霧(きょむ)”。気と血が薄いところが大好物。記憶もやる気も、ぜんぶ曇らせるよ〜」

柚葉は眉間に皺を寄せる。
「は? 私の暗記カード返してもろて。今から回収テストなんですけど」

虚霧は肩をすくめてみせ、霧の指でページをなぞる。文字がにじんで、意味がふっと消える。
「ほら、読んだ端から忘れる。焦るほど曇る。あ、動悸も足しとく?」
心の鼓動が跳ね、脳裏に“空白”が広がった。脾が必死に器をかき混ぜても、中身は薄まるばかり。

そこへ、低い音色が土の底から立ち上がる。ほわ、と温かい甘い香り。
「遅れてないよ。ゆっくりが得意なんだ」
ほっこりふくらんだ金色の塊が現れた。紫のマントをひるがえし、満月みたいにやさしく笑う。
「サツマイモ。弱った“脾”に、ゆっくり“気”を足すために来た」

続けて、まっすぐな橙の光が霧の層を裂いた。
「見えないなら、見えるところから整えよう」
長い外套を翻して現れたのは、ニンジン。瞳は透き通り、指先から細い光が走る。
「“血”を養って目と心を澄ませる。輪郭を取り返すんだ」

もっちりとした甘い香りがふわっと重なる。赤い小さな実が、掌にこぼれるように現れる。
「怖い夢も、焦りも、少し休ませよう」
棗(なつめ)が手を伸ばすと、心の肩からこわばりが抜けた。

最後に、白い紬の衣をまとった人物が一歩進み出る。
「ほどけた糸は、やわらかく包めば結び直せる」
卵が微笑む。衣の裾はふわりと丸く、温かさで霧をじんわり押しのける。

虚霧があからさまに嫌な顔をした。
「うわ、甘い、やさしい、あったかい……一番苦手な三点盛り」

サツマイモが脾の器にそっと身を沈めると、器の中に淡い光の粒が増えていく。
「“脾”は甘味で動く。焦らず、温かく、続ける」
脾の頬に血色が戻り、肩が少し上がる。

ニンジンが心の前に膝をつき、橙の光を胸の中央へ滑らせる。
「灯は小さくても、芯があれば消えない。血を満たして、目と心を一本の線で結ぶ」
心の瞳に、かすかな輝きが戻る。霧の粒が、少しずつ形をもちはじめた。

棗が柚葉の手を握る。
「甘さは“だらけ”じゃない。安らぎの合図。荒れた神経に、座布団を一枚」
胸のざわつきが一段落し、呼吸がゆっくりになる。

卵は四人を丸く包むように両腕を広げた。
「崩れかけた気血の布を、いまだけ私が裏打ちする。あなたは勉強に、私は土台に」
柔らかな温が、じわりと霧の層に染み渡った。

虚霧はうろたえ、霧の袖をバサバサさせる。
「や、やめろ、それは地味に効くやつ……! もっと刺激的なやつで勝負しようぜ? エナドリとか、砂糖ドンとか!」
サツマイモが肩をすくめる。
「派手な炎は一晩で尽きる。私たちは毎日の薪だよ」

ニンジンが一歩踏み込み、橙の光を虚霧の胸へ。
「見えるか。曖昧にされていた輪郭が、線で結ばれる」
虚霧の体から、ボロボロと白い欠片がこぼれ落ちる。

棗が指先で小さく円を描くと、虚霧の足元に“休む時間”の印が浮かぶ。
「焦りは霧の燃料。ここで一回、切る」
虚霧がよろけ、「待って」と言いかけた隙に、卵がふわりと上空へ円を広げた。
「——包む」
柔らかな膜が降りて、虚霧はスローモーションのように薄く、薄く、空気に溶けていった。

霧が晴れる。
白い回廊の壁には、黒いチョークで書き込まれた言葉がくっきり現れた。
キーワード、矢印、因果、そして「ここで一回深呼吸」。
心が立ち上がり、脾の肩に手を置く。
「灯を、ともす」
「燃料を、送る」
二人の声が重なり、回廊の奥にある扉が静かに開いた。

柚葉は額に手を当て、思わず笑ってしまう。
「……“集中できない”って、根性じゃなくて“気血のガス欠”だったのね」

ニンジンが頷く。
「目の前をクリアにするのは“血”。続ける力は“気”。どちらも“脾”の仕事からはじまる」
サツマイモが付け加える。
「甘い温かいものは、だらける味じゃない。働くための味だよ」

棗は指先で小さく合図する。
「少し眠る時間を、毎日に。心はそれで強くなる」
卵が微笑んだ。
「ほどけたところは、焦らず包む。ほら、戻ろう」

世界が一度だけ明滅し、柚葉は自室の机に戻っていた。
ノートの文字は、さっきよりも輪郭がはっきりしている。胸の鼓動は落ち着き、指先は温かい。

冷蔵庫を開けると、昨夜バイト先のまかないで「持って帰って」と押し付けられたタッパーが目に入る。
フタにマジックで「甘いから夜に食べると眠くなるかも注意」と雑に書いてある。
中身はサツマイモとニンジンの卵とじ(刻んだ棗入り)。レンジで温めると、やさしい香りが部屋に広がった。

ひと口すする。
甘い、やわらかい。喉から胸へ、そしてお腹に“座布団”が敷かれるみたいな感覚。
「……うん。これ、暗記の神様に袖の下じゃなくて、椅子を用意する感じだ」

スマホを伏せ、タイマーを二十五分にセットする。
「一章やったら、五分休憩。——霧に燃料、灯に血、そして休む時間」
鉛筆を持ち直し、さっき視界から逃げた段落に線を引く。意味が、前よりもするりと手に入ってくる。

ページの隅に、ふと落書きしたくなって、小さく書く。
《脾→気血を作る/心→血で灯を保つ/甘温=働くための味》
見返して、照れ笑いが漏れた。
「黒板芸かよ私……でも、こういうのが効くんだよね」

窓の外で雲がほどけ、細い陽の帯が机の端に落ちる。
柚葉はその光をなぞって、ページをめくった。

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この記事を書いた人

国際中医薬膳師のいろはが薬膳の効果と普段食べている食材にも効能があることをお伝えします。

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