金柑シロップとミキサーのノイズ
午前中の《喫茶つむぎ》。
曇りガラス越しの光が、カウンターをやわらかく照らしていた。
私はレシピ帳を開き、昨日の続きに目を落とす。
《金柑——開鬱・化痰・寛胸》
走り書きのような文字が残されている。
「開鬱……気をほどく?」
呟きながら、鍋に薄く切った金柑を浮かべた。
酸味が強い。
蜂蜜を足すと今度は甘くなりすぎて、軽やかさが消える。
——“巡り”を良くする味って、どんなだろう。
ため息をついたとき、カウンターの奥から蓮が声をかけた。
「考えすぎると、味が止まるぞ。」
「止まる?」
「流れを見ろってことだ。詰まったら一度、手を離す。」
そこへ、扉のベルが鳴った。
黒いキャップをかぶった男性が入ってくる。
肩にはケーブルバッグ。ジャンパーの袖口が少しほつれていた。
「おはようございます」
「こんにちは。朝陽さんのお知り合いですよね?」
「ええ、PAの真柴といいます。近くでライブ準備してるんですが……
照明担当が体調不良で、急きょ兼務することになって。
なんだか身体が重くて、息も詰まる感じなんです。」
真面目そうな声に、少し疲れの色が混じっていた。
私は笑って言った。
「それは大変でしたね。少し休んでいってください。
金柑のシロップをお出しします。香りが気持ちを軽くしてくれますよ。」
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湯を注ぐと、甘酸っぱい香りがふわりと広がった。
彼は両手でカップを包み、ひと口飲む。
「……あ、胸のあたりが少し楽になりますね。さっきまで息が浅かったんです。」
「それは良かったです。香りのあるものは、呼吸を整えてくれますから。」
真柴は少し照れたように笑った。
「単純に“おいしい”ってだけでも、気が抜けますね。」
ちょうどそのとき、厨房の奥から「ブツッ」と音がして、BGMにノイズが混じった。
「またですか……」
私は慌ててスイッチを確認したが、原因がわからない。
「ちょっと見てもいいですか?」
真柴が軽く手を上げ、配線のあたりを覗き込む。
「暖房とオーディオ、同じタップに入ってますね。これ、電気が取り合いになってノイズが出るんです。」
彼は慣れた手つきでコードを分け、スイッチを入れ直した。
途端に、BGMのノイズが消える。
ピアノの音が静かに店内を満たした。
「はい、これで大丈夫です。」
「助かりました……」
私は胸をなで下ろす。
真柴は笑いながら、もう一度金柑シロップを飲んだ。
「音が濁ると、胸まで詰まる気がするんです。
だから、こうやってスッと抜けると、体まで軽くなる。」
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蓮がカウンターの向こうからコーヒーをすすり、静かに笑った。
「なるほどな。人も音も、余裕がないと詰まるんだ。」
「ほんと、それですね。」
真柴はカップを見つめ、ぽつりとつぶやいた。
「詰まってたの、音じゃなくて、自分の方だったのかも。」
私は頷き、レシピ帳を開いた。
古いインクで書かれた「開鬱」の文字の下に、今日の記録を添える。
金柑=開鬱・化痰。
音も人も、詰まったら一度流れを変える。
インクが乾くころ、金柑の香りがまた静かに広がった。
ページの隅には、かすかに滲んだ文字がある。
——「龍眼」「心」「眠り」。
物語は、まだ続いているようだった。
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今日の薬膳ミニ知識
金柑(きんかん):胸のモヤモヤ、胃の張り、ストレスで呼吸が浅くなっている時に良いとされる果実。皮の香りが巡りを助け、気持ちを軽くする。
蜂蜜:酸味や刺激をやわらげ、体と心に“余白”を作るような味わい。飲み物に加えるとやさしい仕上がりに。
→ ノイズが重なると音が濁るように、心も巡らないと重くなる。
ひと息つく甘さと香りが、流れを整えてくれる。
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