夜のアラームが鳴っても、柚葉はベッドの上で動けなかった。
レポートを提出して、課題も全部終わったはずなのに、心が空っぽだ。
スマホを開けば、友達の楽しそうな投稿が次々と流れてくる。
旅行、恋人、推しライブ、カフェ巡り。
どれもキラキラしていて、自分だけが世界から切り離されたみたいだった。
「なんかもう……疲れたって言葉すら、疲れた。」
天井を見上げて、息を吐く。
胸の奥がスカスカして、体が軽いのに、心は重たい。
泣けそうなのに、涙が出てこない。
頭の奥で、ぼんやりと自分の鼓動だけが響いていた。
そのとき――視界がぐにゃりと歪んだ。
まぶたの裏に赤い光が差し込み、柚葉はまた体内世界へと引きずり込まれていく。
そこは、干上がった湖の底だった。
泥はひび割れ、ところどころに枯れ草が突き刺さっている。
遠くで風が泣くように鳴っていた。
その中央で、真紅の衣をまとった“心”が膝をついていた。
長い髪が乱れ、頬の血色は消えている。
手の中の小さな杯には、わずかに光る赤い雫が残っていた。
「……私は“心”。感情と血を司る。でも、血が足りないの。
脾が弱って血を作れず、私の泉も干上がってしまった。」
柚葉は駆け寄る。
「血が足りないって……だから涙も出ないの?」
心は小さくうなずいた。
「そう。血は心の燃料。足りなくなると、喜びも悲しみも鈍くなる。」
その時、湖の亀裂から黒い影が滲み出た。
煙のように広がり、形を変えながら柚葉の足元に絡みつく。
冷たくて、重たい。
「うわっ……なにこれ、冷たい……!」
影はかすれた声で笑った。
「俺は“スカスカ影”。心血が足りなくなった人間の中に住みつく。
感情を乾かして、笑顔を奪うのが趣味なんだ。」
心が顔をしかめる。
「出ていきなさい……あなたのせいで、私の世界が枯れていく。」
「出ていけ? いやいや、乾いた場所こそ俺の住処だ。」
影が笑うたびに、湖の地面から砂が舞い上がり、光が吸い取られていく。
柚葉の胸も締めつけられ、息が詰まるような苦しさが込み上げた。
「……どうすれば、取り戻せるの? 心の泉の水を。」
心はかすかに微笑んだ。
「潤いと甘み。血を育て、気をやわらげる“優しさ”が必要なの。」
その瞬間、柔らかい香りが風に乗って漂った。
淡い光の粒が空から降り注ぐ。
赤い果実を髪飾りにした“棗(なつめ)”が現れた。
「人の心は、優しさで満たされるものよ。」
棗が手をかざすと、乾いた湖にじんわりと温かい赤色が広がった。
空気が少し甘くなる。
続いて、赤い瞳をした青年“竜眼肉(りゅうがんにく)”が現れる。
手のひらに小さな炎を灯し、穏やかに言った。
「温かさを思い出して。思考も感情も、冷えると動けなくなる。
僕は血を養い、心を落ち着ける。焦らなくていい。」
彼が指先で湖に触れると、火が水に変わり、少しずつ泉が戻り始めた。
だが、スカスカ影は声を荒げた。
「そんなぬるい甘さで俺は消えない! 潤ってもすぐ乾くさ!」
冷たい風が吹き荒れ、赤い水面が揺れる。
心がまた膝をついた。
そのとき、金色の光が差した。
甘い香りとともに現れたのは、琥珀色の瓶を背負った“はちみつ”の精。
髪の先がとろりと光り、穏やかな声で言う。
「焦らないで。潤いは、静かな時間と一緒に沁みていくの。」
はちみつが湖に一滴垂らすと、甘い波紋が広がった。
乾いた地面が柔らかくなり、柚葉の胸の奥まで温かさが広がっていく。
「……やさしい。けど、まだ足りない。」
心がそうつぶやいた瞬間、朱色の光がスッと差し込む。
髪に小さな赤い実を編み込んだ少女、“クコの実”が現れた。
眩しい笑顔で、胸を張る。
「ねえ、ちゃんと休んでる? 気と血の流れが止まると、心までカラカラになっちゃうよ!」
クコの実は両手を広げ、鮮やかな光を放った。
その光がスカスカ影の体を照らす。
「やめろ……まぶしい……!」
「まぶしいのは、あなたが闇だから。」クコの実が凛と答える。
「心が潤えば、闇は立っていられないの。」
光が弾ける。
影は叫び声を上げ、煙のように霧散した。
湖の水面は再び満たされ、赤い光が反射してきらめく。
心はゆっくりと立ち上がり、柚葉に向き直った。
「ありがとう。血が戻れば、心はまた動ける。
涙は、心が生きている証拠なんだよ。」
その言葉に、柚葉の頬を温かい雫が伝った。
いつの間にか、涙がこぼれていた。
でも、それは悲しい涙じゃなかった。
ほっとしたような、柔らかな涙だった。
「……あ、涙。出た。」
心は静かに微笑んだ。
「泣けるうちは、大丈夫。乾いていた心が、もう潤いを取り戻したから。」
光がふわりと広がり、柚葉の視界がゆっくりと戻っていく。
気づけば、朝の光がカーテンの隙間から差し込んでいた。
枕元には、昨日コンビニで買ったまま忘れていた牛乳と、はちみつの瓶。
キッチンでカップを取り出し、ミルクを温める。
そこに、棗とクコの実を数粒入れ、はちみつをひとさじ垂らした。
湯気の向こうから、ふんわりと甘い香りが広がる。
一口飲むと、体の芯までじんわりと温かくなった。
涙がまた少しにじむ。
「……うん、これなら泣いてもいいや。」
カップを両手で包みながら、柚葉は笑った。
胸の奥の泉が、もう一度ゆっくりと動き始めている。
それは、彼女の中の“心”が確かに生きている証だった。
